習慣

 一昨日の日記で、色々と習慣になっていたことがなくなった、と書いた。映画館やジムが復活するのか、という問題はもちろんなのだが、一方で、その習慣が途切れてしまった自分自身は復活できるのかな、という心配もある。

 最たるものは仕事である。習慣であってもまあまあしんどいのに、すでに二ヶ月休んでいて、新しい人間関係や慣れない業務に飛び込む気力が果たしてあるのだろうか、と心配になる。

 トレーニングもそうだ。楽しいけど、それなりに疲れることもやっている。ブランクが空いたら、今までこなせていたこともできなくなっていたりする。年齢的にも衰えが早くなって行くはずだ。

 映画はどうだろう。ホームシアターを持っているので、家で観るのもそれなりに楽しい。配信を見続ける限り、大して金もかからない。映画館で新作を観る喜びはもちろんあるはずなのだが、しばらく離れてしまうと、もはや自分がそこにこだわりを持ち続けるのかどうか、わからなくなってくる。

 「まあ、いいか」だ。そこまでしなくてもいいか、情熱をなくしてしまってもまあいいか。よくはないんだが、今現在、このやりたくてもできないこの状況に適応するために、心のどこかで「まあ、いいか」と思うようにしてしまっている面がある。「本当はやりたくてたまらないけど我慢してる! 早く! 早く!」と思っているより「まあなくてもいいか」と思う方が、精神衛生上、ずっと楽だからだ。それは単に心の持ちようであり、処世術みたいなものなんだが、いつか世の中が元通りになっても、ふっつりと切れてしまったものはもう戻らないんじゃないか。戻すモチベーションがもう自分にはないのではないか、とも思う。

 自分という人間の大半は習慣で出来ていて、その習慣をこなしていることで他人からも認知されているのではないかな、とも思う。Twitterにこの時間に現れて大体こんなことを書いて、その繰り返しでぼんやりとしたイメージが形作られているのじゃないかな、と思う。習慣がなくなれば、段々と呟くこともなくなり、薄っぺらくなって消えていくばかりなんではなかろうか。これが老いであり、死か。

 ……なんか無気力なようで、むしろ殊勝なことを書いてしまったな、という気がする。

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そんなタマじゃねーよな

 こんなこと言っといて、何ヶ月か後には平然と復活して、また遊び呆けてるのかもしれない。それならそれでいい。今、この時の気分をこうして残しておいて、いつか読んで笑えたらいいと思う。


 昨日から読んでる本。これはすごい地味なタイトルだな、と思ってたがもうシリーズ4冊も出ている……!

巡査長 真行寺弘道 (中公文庫)

巡査長 真行寺弘道 (中公文庫)