“めげずにまたやろう”『追想』


映画『追想』予告編

 シアーシャ・ローナン主演作!

 1962年、バイオリニストのフローレンスと歴史学者を目指すエドワードは恋に落ち、家同士の格差を乗り越えて結婚にこぎつける。だが、迎えた初夜に起きたすれ違い……。愛し合っていたはずの二人の運命はなぜ分かたれたのか?

 原作はマキューアンの小説『初夜』。邦題はちょっとインパクトがなさすぎで、回想シーン主体に構成されているから、ぐらいの感じかな。
 結婚式を終えた新婚夫婦がホテルに入るところから始まる。何だか緊張気味で会話も硬く、実に初心な……。ディナーを給仕するボーイが陰でニヤニヤしてるのが超感じ悪く、さっさと出て行かんか!とイライラ。
 ムードを作りつつちょっと先延ばしにしたい妻と、不安もありつつもうムラムラして止まらない夫のギャップが交錯。相変わらず脱がない我らがシアーシャ・ローナン、さあ脱がしますよ、というところで絶妙のタイミングでジッパーが壊れる! なんという御都合主義、しかし夫役ビリー・ハウルの「俺はジッパーすら開けられないのか!」という自分への怒りが爆笑ものだったので、それは良しとしよう。

chateaudif.hatenadiary.com
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 こんな調子で果たしてうまくいくのか、半ばハラハラ、半ばヘラヘラと見る中、それぞれの回想で出会いが語られる。シアーシャ側はエミリー・ワトソンの厳格そうな母親といい加減そうな父親、妹にも囲まれた保守的なちょっといい家。ハウル君は列車のドアで頭を打っておかしくなった母親と若干呑気そうな父親、双子の妹と共に暮らす庶民派。60年代のイギリスの階級社会を象徴的に描いたような、対照的な家族像。家を見れば一目瞭然だが経済格差も大きい。
 出会いから二人の関係はいい感じで、アート志向でリベラル寄りの価値観のシアーシャは家柄の違いも全然気にしない。若い世代が、保守的思考を突き崩す契機になる予感も漂わせながら、関係を深める二人。シアーシャ両親も渋々ではあるが結婚に同意。

 ようやくお互いパンツを脱いで、イザ! あ、入らない、こういう時は手で手伝うべし、とハウツー本にあったな……アッ! と、ここまでは笑って見てたんだが、急にシャレにならん事態になったから愕然! 突如、子供の頃の父親による性的虐待がフラッシュバックし、パニクるシアーシャ。パンツも履かないまま海辺へと飛び出す……。殺すぞ! 性犯罪者が!
 男の方は、そんな心理はわからんから、自分が暴発してしまったせいで怒らせたかと勘違い、プライドも傷つく……追いかけるのにめちゃめちゃきっちり着込んでから出て行くあたり、まるで防衛反応で、演出が細かくてグッド。

 全然経験のない二人なので、半ばパニックのまま「わたし、セックス無理かも……」「僕への侮辱だ!」と思考は明後日の方向に飛び、売り言葉に買い言葉でどんどんこじれる。男の方はとりあえず一発抜いたことだし、気を取り直して落ち着いてもう一回、で済むかもだが、女の方のトラウマはちと手間取るかもな……まあ何にせよ時間をかけてやっていこうじゃないか……というのが側から見てて感じることだが、童貞君のプライドは面倒臭いのである。

 初夜とそれ以前の回想を交互に繰り返す構成だが、交際から結婚に至る流れは誰にでもわかるだろうし、時系列の混乱もない。スムーズに進行し、だからこそこの破局が悲しい……。

 十数年後、70年代。ビリー・ハウル君はおっさんになり、しかし趣味だったレコードを極めてレコード店のオーナーに! そこへ一人の少女が、母への誕生日プレゼントを買いに来る。それはシアーシャの好きだった曲で……。
 イギリスの階級社会の変遷が描かれるが、70年代を挟むのはこの時代の激動あってこそ、であるからかな。さらに2000年代の老人になるまで飛んで、作劇としては少々くどいんだが、経過が重要なので……。
 音楽と共にキーワード的に扱われているのが球技で、ハウル君は最初はゴルフ場の整備をしていてプレーはしたことないし、シアーシャ父のテニスに未経験なのに付き合わされる。この時代の球技は、まだブルジョワの遊びだった。2000年代になり、ハゲ散らかした老人になったハウル君はいきなりクリケットに興じていて、この時代には球技も庶民に浸透したことがわかる。

 老人メイクなど、ラストはちょっとやりすぎ感もあるのだが、綺麗にまとまっているのでよしとしよう。渾身のラストカットも(実はパンツはいてない)と注釈しながら見たらいいですね。珍しく放浪しないシアーシャ映画だったのもよかったかも。