『MW』
- 作者: 手塚治虫
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 1995/02
- メディア: 文庫
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う〜ん、同性愛とレイプと幼児殺しと獣姦と女装とを取っ払って、アウトラインだけはなぞって再構成したらこうなるのか……。金のかかった2時間ドラマであった。ただ、「刺激物」である上記の設定を取っ払わないと「テレビで放映できない」のだが、それらはスパイスとして原作に深みを与えてる部分なんだよなあ。それらなしで、主人公の世界を滅ぼすほどの憎しみを表現できる……というならやって見せて欲しかったものだが、そこらは描かれずじまい。
玉木宏はどうも演技プランを間違ってないか……? どのシーンでもいかにも怪しいし、バレてない時点で刑事に対して挑戦的なのはなぜだろう……。もともと、会社などでは「頭はいいが計算高さ故に強い者には媚びる」「美男子だが、どこかなよっとしてて強さは感じさせない」という素振りをしていて、その裏の非情さや残虐性は普段は表面に出てこない、というキャラクターでないといけない。それがしょっちゅう冷たい顔してたらダメだろ。
合わせて、演出も外してはいないんだが、「ここはハラハラするとこ」「ここは悲しいところ」という紋切り型表現の域を出ていない。やたらと音楽鳴らしたり、画面ぶれさせたらいいってもんじゃないだろう。
ま、しようがないか、当たり障りない物しか放送できないテレビ主導の日本映画で、「悪」を表現できるわけがない。
が、それに引っ張られて、対立する「善」の描き方までが適当なのはいただけない。こっちの方がひどいぞ。
原作の賀来神父は、元不良でゲイ、その過去を悔いて聖職に入った……が、大して人も救えず、かつて犯した少年は悪魔になってしまった。彼にとって神父であり続けることは贖罪なのだ。
で、原作と違う映画オリジナルの部分として、彼のいる教会は孤児院となっていて、何人もの子供をそこで世話している。玉木曰く「守るべき者が出来たか」だそうだ。ふんふん、この設定をどう活かすのだろう、と思っていたのだが……。
「オレは、おまえさえいてくれたら、それでいいんだ」
でた〜! ホモ発言! きゃ〜!
いやいやいや、じゃなくてちょっと待てよ。孤児院やってるとかいう設定は、社会的責任を果たしてる大人だっていう意味でしょ? そんなこと安直に言っちゃっていいの?
さらに、
「オレと一緒に逃げよう」
ひ、ひどい! 子供たちを捨てて……!? うーむ、これは拾われたガキなんてどうでもいいぐらい、玉木宏が好きということなのか? うーん、中途半端な悪である玉木よりも、この山田神父の方がひどい奴のような気がしてきましたが……。
そして、
「オレと一緒に死のう」
ちょっと待てって! カトリックの神父がそんなこと簡単に言ったらダメでしょ!? こりゃひどい堕落だろ。教会からクレームつきそうなレベルじゃね?
さらに、クライマックスで教会の子供たちが誘拐され、毒ガス奪取に利用されている時も、山田神父はまったく子供の心配をしていないのである。子供たちを助けるのは石橋凌演ずる刑事。
……以上の描写から見えて来た結論は、山田孝之神父はもちろんゲイであり、玉木宏のことを愛しているということ。そして、それに罪悪感を感じているが故に、形だけ聖職者となり孤児院を経営して子供の世話をしたり人助けをしているように見せかけているが、実際は玉木のためならば信仰も子供も捨て去ることができるのだ、ということ……!
ああ〜、巨大なる「悪」を描くことに失敗した本作だが、意外にもこういう自己満足的な悲劇のヒーロー面した「善」を描くことに成功してしまった。いや、こりゃねえだろ。原作の賀来神父は、自分の欲望に抗えぬまでも、誰よりもそれに自覚的でありそれ故に苦しんでいたのだ。そのキャラクターを何一つ表現できてないじゃないか。これだったら「神父」という設定を残す意味は何もない。
対照的な台詞を、二つ並べよう。
まず映画の賀来神父は以下。
「彼は、人間じゃなくなった」
そして、原作の賀来神父だ。
「ちがう! 彼は人間だ! 悪魔にとりつかれた哀れな人間なのだ」
とても、同じキャラクターの発した台詞とは思えないぐらい、真逆だ。どうしてこうなってしまったのか……? ま、そりゃあ大して考えもせずに作ってるからでしょうな……。
大いなる凡作。もう墓の下にいる手塚治虫は、泣くことさえできないんだってことを、生きてる人間こそがもう少し考えないといけないんじゃないの?