"わたしたちは貴方がたにとってなんですか?"『わたしを離さないで』


 カズオ・イシグロ原作小説の映画化。


 寄宿学校ヘイルシャムで暮らす三人、キャシー、トミー、ルース。幼い頃から一緒だった三人は、ヘイルシャムの他の子供達同様、ある未来を決定付けられていた。「提供者」……成長した三人にも、やがてその時が迫る。だが、ふとしたことで彼らは、わずか数年ながら、その未来を逃れることができるという噂を聞きつける……。


 第一回関西映画クラスタオフにて観た映画。
http://d.hatena.ne.jp/chateaudif/20110327/1301193895


 そこは絶望しかない世界。一度「提供者」として生まれれば、そこから外れる生き方はできない。映像にも設定にもSF映画的な世界観の作り込みはなく、読んでないがたぶん抑制された文章で(悪く言えば曖昧に)書かれた原作を、そのまま映画化してるんではないかな。そういう意味ではディストピア映画らしくはないのだが、それゆえに「そういうもの」としておぞましいものが定着し切り、人間全てが飼い馴らされてしまった世界であることを、逆に実感させる。設定的にはスカスカなのに、「そうなっている」ということが、逆説的にその強さを示すのだ。
 だが、決定された死を前にして、わずか数年の「猶予」が与えられるかもしれないという。絶望の中で目の前につり下げられた、希望と呼ぶにはあまりにちっぽけな、ほんの少しの時間。


 日頃のこっちのテンションなら、「いかれた体制だ! ぶっ潰せ! ロックンロール!」と、がなるところだが、さすがにこの登場人物の面子では無理だろう……ということで、そういう主張は引っ込めることにする。


 何不自由なく生活できる代わりに、20代での死を運命づけられた者たちは、それをいかに受け入れるのか。ストーリーは、キャリー・マリガン演ずるキャシーの回想という形で進む。


 寄宿学校「ヘイルシャム」で育った三人。キャシーと、アンドリュー・ガーフィールド演ずるトミーは幼い頃から惹かれ合っている。トミーはナイーブで感受性が強く、癇癪持ちだ。同じ学年の少女ルースはそんなトミーに苛立ち、いじめていたのだが、ある時を境に彼に接近していく。キャシーとトミーの仲はそれによって裂かれるが、学内にて進路も管理されている三人は、ヘイルシャムを出ても同じ学校へと進む。


 このヘイルシャムという学校は、他の同じような施設に比べても進歩的であるらしい、ということが後に語られるのだが、他の施設の描写がないので今ひとつ伝わらない。そして、出ることの許されない寄宿学校という閉じた環境であるのは、思春期にお決まりのいじめと閉塞感だ。親のいない子供たちは、逃れることも出来ず、肩を寄せ合って生きていくしかない。どのみち、息苦しく鼻持ちならない場所である。
 だが、芸術の分野に力を入れる「ヘイルシャム」という存在は、提供者たちの間に「提供猶予」という噂をもたらす。
 長じてルース(成長してからはキーラ・ナイトレイ)とつきあうようになっていたトミーだが、それを聞きつけるとその関係に疑問を抱くようになる。「提供猶予」の条件には、「愛し合う二人の男女」という条件があるのだ。ヘイルシャムが芸術の分野に力を入れているのは、作品である絵画や彫刻を通して、その愛が本物かを判断するのではないか?という考えに彼は思い至る。


 「ヘイルシャム」の出身である三人は、最初はその噂を信じていなかった。出身者である彼らが、そんな噂はまるで聞いたことがなかったからだ。だが十年後、「提供」が始まり、時が経つにつれて……それに取りつかれていく。


 世界観を描き込むのではなく、三人の主人公の心理を丁寧に追ったことがここで光る。
 かつて騎乗位(こういうところ躊躇ない女優ですね〜)でアンドリュー・ガーフィールドをむさぼっていた活力に溢れたルースは、「提供」が始まったことによって見る影もなく弱り果てている。かつては侮蔑したキャシーに肩を貸されながら、病院の長い廊下を歩くシーンが素晴らしい。まだ二十代だというのに、迫る死を希望か救済のように語る姿は、すでに老婆のようだ。キーラはちょっと他の二人よりもキャリア的にはベテランかな、と思っていたが、一歩退いた立ち位置から、深い悔恨をも口にする。


 アンドリュー・ガーフィールドは『ソーシャル・ネットワーク』でも演じた脆弱さを再び見せる。かつて『ソーシャル・ネットワーク』では友に裏切られた男という役回りだったが、あの時もその友が自分無しではやっていけないというある意味傲慢な思い込みに支配されていた。今作でも、与えられた小さな希望にすがり、その「結論」ありきで強引に論拠を見出す様は、今まで起こったこと、これから起こることを受けれられない弱さばかりを示す。


 いや、あるいはその弱さこそが、彼の優しさなのであろうか……。それに惹かれたキャシーは、しかし一度たりとも積極的に「希望」を肯定しない。回想らしくどこか一歩退いた視点で過去を受け入れ、現在と、やがて訪れる絶望の未来をも受け入れる。ルースを許し、トミーの弱さを抱きしめ、静かな強さをたたえて運命と対峙する。その強さは諦観ゆえのもので、積極的に肯定すべきものではないのかもしれない。だが、彼女とて好き好んでそれを受け入れたわけではないのだ。キャリー・マリガンの存在感と、密やかに流す涙が素晴らしい。


 淡々と語られる結末のそのおぞましさは、まさに受け入れ難いものだ。トミーが思い描いた構図でさえ、その意味するところは人の生死を弄ぶ歪んだ価値観に過ぎない。だが、作中で示される事実はそれさえ凌いで遥かに残酷だ。最後の叫びが痛々しい。
 最初に書いたとおりSFとしての作りはぬるいのだが、その曖昧さゆえの落ちのつけ方。その「偏見」を最初から細かく描いていれば、かくなる結末には持っていけなかったであろう。
 原作未読だが、確かに少々情緒的に過ぎるような気がするし、映画という媒体にして見るとやはり作りこみの甘さがマイナスに作用している部分も多々ある。ただ、牧歌的なビジュアルの裏にある心理の書き込みはリアルだし、絵空事とは言えない現実味があるのも確かだ。作中の「偏見」が、将来、我々の社会では成立しえないとは言い切れない。


 傑作ではないが、小品ながら良作。


 さて、ここから余談だが、アンドリュー・ガーフィールド弱々しいですねえ……。ほんとに脆弱だ……こんなので次のスパイダーマンは大丈夫なのか? トビー・マグワイア演じるピーター・パーカーは、ストーリーが始まった当初はひ弱に見えるが、やがて彼の中に格好と関係ない本当の強さがあるのが見えてくる。それは他作品『カラー・オブ・ハート』や『シビル・ガン 楽園をください』を見れば明らかだったわけだが、このガーフィールド君は……ジェームズ・フランコの役ならわかるけど……。そんなことを考えつつキャリー・マリガンの静かな強さの表現を見ていると……うーむ、こっちがスパイダーマンやった方がいいんじゃね!?とちょっと思ってしまったのであった……!

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

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