”親しき友へ”『ウォールフラワー』


 青春映画!


 入院を経て高校に入学したチャーリーは、友達もできず孤独に過ごしていた。だが、アメフトの試合で、以前に教師をネタにジョークを言っていた上級生のパトリックに声をかけ、さらに彼の義妹のサムとも仲良くなる。チャーリーはパトリックのグループに加わり、やがて彼らの持つ秘密を共有することに……。


 キャストだけ見たら、「わはははは、パーシー・ジャクソンとハーマイオニーと残酷な弓を射る少年の三角関係か」と思ってましたが、これはいい意味で裏切られる内容でした。


 主人公を演ずるローガン・ラーマン君、親友に自殺され、自分も精神を病んで入院してたという巨大なハンデを背負いながら、不安いっぱいの高校デビューを飾る……。あえなくスタートダッシュに失敗し、ジュニアハイまでの友人や兄弟の友達も彼を見て見ぬ振り。優等生の集まるはずの授業でも全くなじめず……。
 国語の先生にはその秀才ぶりを見抜かれ気に入られるが、「教師にだけは好かれる奴」って、まあいじめの標的になるポジションだわな。


 そんなこんなでお先真っ暗かと思いきや、エズラ・ミラーのはみ出し者グループに混ざって意気投合。『ロッキー・ホラー・ショー』(http://d.hatena.ne.jp/chateaudif/20130925/1380105156)やってるあたりから、もうこりゃあスクールカースト内のごっこ遊びには混じれないなあ、ということが明白な人たち。こないだカナザワ映画祭で見てきたところだったのでちょうど良かったのだが、これがかの映画のなけなしの内容が今作の伏線になっておるということでもあるのね。


 登場シーンから『三銃士』(http://d.hatena.ne.jp/chateaudif/20111110/1320901456)の快活さ、剛毅さなんて微塵も感じさせないローガン・ラーマン君、実は演技うまかったのだな……。パーシー・ジャクソンが残酷な弓を射る少年にズキュウウウウン!と射抜かれちゃうのかと思いきや、まさにそうだったけど、射抜かれたのは残酷な弓を射る方でもあった、というお話でもありましたね。 「友へ……」と手紙に託してネガティブモノローグを乱発するので暗い人かと思いきや、はみ出しグループじゃ圧倒的に勉強も出来て頭も良く、別にコミニュケーションに難があるわけでもない。結果、ある時期から普通にモテる……。これも原作は小説だし、読んだことはないがある時代の人にはズッキュウウンしちゃうということで村上春樹の小説のキャラっぽいのではないか。
 非モテからリア充へ……。しかし、だからと言って登場人物の抱えている葛藤はそんな単純な図式では割り切れない。国語教師との、「なぜ、人は自分を傷つけるような相手を選んでしまうのか」「それがふさわしいと思うから」というやり取りが、主人公と仲間たちの抱えるものを象徴していて、エズラ・ミラーも、今作のヒロインであるエマ・ワトソンもそれぞれグループ外の相手と付き合うが、どこかその関係の奥深いところから目をそらしている感がある。残酷な結末を迎えることを半ば予期しながらも、「自分が好きだからいいんだ」「今、愛してくれているからいいんだ」とその関係を続けているのは、自分がそうした目に遭うのがふさわしいと心のどこかで思っているからなのではないか……。
 唯一グループ内で付き合い始めるローガン・ラーマンと、メイ・ホイットマンの関係もその変奏曲で、ここでは主人公がその「傷つけるような相手」の側に回ってしまう。このシチュエーションを網羅し追体験させていくようなストーリーテリングの上手さには驚かされたもので、グループ内でも常に関係が変遷していく不安定さが良く出ていたな。
 主人公が当初「良きもの」として述懐する叔母との過去は、最後に明らかになることからも、まさにその極めつけとして描写されている。直接的表現を避けながらも、被害者が加害者になり、その被害者がまた加害者になる。その連鎖が繰り返されていることを指している。


 ドラッグやセックス、暴力も含めて「危ない」ことも一通り描き、家族との関係や進学の問題も忘れずに触れておくことで、今、主人公たちが過ごしている時間がまさに「今」だけのものだと強調して行く。乱暴な手つきで扱うと壊れてしまいそうな上に、いつか、いやむしろもうすぐになくなってしまうかもしれないもの、いずれにせよ必ず消えゆくものとして「今」を描く。
 メインの三者を中心に、関係性を交錯させることで非常に網羅的に約一年間を描き出していて、いやはや「青春の1ページを切り取った」というのもいい加減手垢のついた言い回しなんだけれど、ここまで描き切ってやっとそう呼ぶに相応しくなったと言えるんではないだろうか。
 その「今」の美しさ、尊さを見せたラストは、だからこそあんなにも輝くのだ。


 これからも過ぎ行く時と今の青春を対比して描く、ということで、過ぎ去って欲しくない気持ち、この時間が永遠に続いて欲しい気持ちももちろんあるのだけれど、そうではない面もある。
 叔母と並んで、主人公が喪失した「自殺した友人」の存在が語られるが、叔母が回想で登場するのに対し、この人物に関しては、いかなる人間だったのか作中ではほとんど触れられない。ただ、主人公が彼に語りかけるのみだ。
 ここはストレートに、この死んだ友人とは観客である我々なのでは、と解釈してもいいのではなかろうか。高校生活を過ごす前に命を絶った少年とは、まさにこれから高校に入るか否かという年頃の読者、入ったけれど鬱屈を抱えている、あるいは実際に過ごしたけれど今作の登場人物のような自己否定から逃れられずまさに過去を殺してしまった観客に語りかけているのでは、と思う。そしてそれは、主人公の見る鏡の中の自分でもあるわけだ。
 そう思うと、その「友人」へと別れを告げる手紙の締めくくりは、決して悪いものではない。
 そうして我々も歩き出すわけだ。同じく友人に別れを告げ、本を閉じ、劇場を出て、少しだけその色を変えた世界へと。

ハリー・ポッター コンプリート セット (8枚組)(初回生産限定) [Blu-ray]

ハリー・ポッター コンプリート セット (8枚組)(初回生産限定) [Blu-ray]

少年は残酷な弓を射る [DVD]

少年は残酷な弓を射る [DVD]