”呪いはいつか祈りへ”『マッドマックス 怒りのデス・ロード』


 シリーズ第四作!


 愛車インターセプターとともに荒野を駆ける男マックスは、白塗りのウォー・ボーイズと呼ばれる集団に捕らえられる。輸血用の血として保管されたマックスは脱走を試みるが、再び捕まってしまう。その頃、物資の補給に出発したウォー・ボーイズらの幹部フュリオサは、突如、支配者であるイモータン・ジョーに逆らい、ウォー・タンクで逃走を試みる。その時、砦に幽閉されたジョーの子を孕んだ女たちが残らず消えていた……。


 最初はリメイクかと思っていたのだが、一応、主演こそ変わっているが続編なのね。まあ話なんてあってなきがごとしなので、まあどっちでもいいんだが……。ちょうど『2』をカナザワ映画祭の爆音で見直したところだったので、今作に向けてのテンションはばっちり。しかし、当日急に試写会をもらったので、予定外のスケジュールで何気なく行ってしまいました。さらに、公開二日目にIMAX3Dでも二度目を鑑賞。


 過去を「呪い」として背負い希望も持たずに彷徨する男が、「血液袋」として捕らえられた地は、イモータン・ジョーと呼ばれる男が、水、作物、燃料、弾薬、この乾ききった世界で貴重とされるものすべてを牛耳っている。男子は「ウォー・ボーイ」として寿命を制限された戦闘員とされ、女性は子供や母乳を生産する「産む機械」となっている。美しく健康な女は選りすぐられ、イモータン・ジョーの「子産み女」として後継者作りの道具にされている。
 ……という設定は別に大して説明もされず猛スピードで提示され、さらに捕まった男はそのことを全然知らず、逃げ出すことしか考えてなくて興味もないので、お話は怒涛の勢いで転がっていく。
 ウォータンクに乗って補給に出たはずのフュリオサ将軍の離反、そして逃亡。砦からは子産み女たちが残さず消えていた。男は寿命の迫ったウォー・ボーイの一人ニュークスに連れ出され、血液袋として車の先頭に縛り付けられることに……。
 まあここから映画はずーっとカーチェイスしっぱなし。三つ巴の追撃戦から、巨大な砂嵐にイントゥ・ザ・ストームするここまでが冒頭のつかみのアクションという感じで、その流れが一瞬、凪のように途切れたタイミングでマックスが女たちと出会う。突然登場する、おぞましい貞操帯から解放された半裸の美女たち。一つも説明的なセリフがないまま、対決するマックスとフュリオサ。この辺りの流れるようなリズムに乗って、描写が染み通ってくるような感覚もいいですね。


 ここから、マックスはまったく成り行きと必要に迫られて協力することになるのだが、ツンツンしているのにフュリオサとめっちゃ息があってくるところが面白い。最初は余計な戦いに嫌々巻き込まれていたはずが、あっ、なんかこの女たちのこと好きになってきちゃった……という表現があのサムズアップなのかもしれないね。


 迫るイモータン・ジョーとその麾下の大軍団。各車のビジュアルやギミック、部下やウォーボーイズたちのキャラクター、ギターを掻き鳴らし太鼓を連打するあのわけのわからなさ……。太鼓のドンドドンというリズムから幕を開ける追跡戦は、もはや作中の音なのかスコアなのかもわからない一体感の中で展開され、一瞬の隙もない。特に編集の丁寧さにはびっくりで、各キャラクターの位置関係が決して飛躍することなく明瞭に示され、車の底に張り付いてくる雑魚キャラのその後まで余すところなく描かれる。その丁寧さがあるからこそキャラも立ってきて、さらにこれ見よがしな余剰感もない。全編が無駄なくカーチェイスに奉仕していると言うか。


 物語の主役はフュリオサと子生み女たちで、マックスはあくまで渋い助っ人ポジション……なのだけれども、彼にもしっかりドラマがある。かつて妻子を失った過去は悪夢めいた回想で匂わされるのみだが、前半は捕らえられた地獄のような状況下で、その幻がより死の気配を濃厚にまとって迫ってくる。だが物語が終盤に差し掛かった頃、幻はビジュアルこそそのままだが、がらりと様相を異にする。
 目指したはずの「緑の地」が、すでに汚染された沼に変わっていたことを知ったフュリオサたちは、その地で待っていたわずかな一族の生き残りの老婆たちと共に、遥か塩の海を渡ろうとする。元から成り行きで協力していたマックスは別れを告げ、去ろうとする。だが、そこでまた現れる、あの幻……。マックスは追いすがり、女たちが思っても見なかった道を示す。


 故郷で平和に暮らすことを夢見ていたフュリオサは、その時までは義憤に駆られた一介の戦士でしかなかったわけだが、その彼女に「英雄となれ、英雄であれ」とマックスは指し示す。多くの男が野心を持ってジョーのように振舞うことに焦がれる時代に、野心なき女にそれを背負え、ということの苛烈さを知りつつも、それこそが唯一の道であると説く。そうあろうと決意した瞬間に彼女は英雄となる。


 一代の英雄である女を、(前三部作から)時を超えてやってきた男が導く展開は神話的であると同時に、家族を亡くした過去を夢に見て絶望に囚われた男が、逆に女たちによって救われるようでもある。絶望し人との関わりを避け、過去が突きつけてくる「救えなかった」という「呪い」に苛まれていた男の前で、その「呪い」そのものが「今度こそ救え」という「祈り」へと変わる。誰かを救うということは、そのことによって自らも救われるということでもある。かくして、マックスは成り行きではなく、何の得にもならねえ勝負に自ら命を賭ける。この狂気に満ちた世界の中で、「オレも狂っているのか?」と自問する男こそが、実はもっともまともな人間なのだ。


 自らの尊厳のために自由を求める女たちと、その女たちのために戦う男二人、マックスとニュークス。そうして戦うことこそが誇りであり、本当に生きるということであり、それこそが「男」である。断じて、あの支配者づらした老人のように、支配し搾取しハーレム作りに精を出すことではない。あの偽物に一発かましてやろうじゃあないか……!


 その点、イモータン・ジョーはなんだかネプチューン・キングっぽいな。役者も一作目のトゥーカッター役の人で、まあある意味カリスマ的存在である……んだけど、マジで崇めているのはカルトなファンだけで、中身はもうおじいちゃんである。冒頭、マスクとプロテクターを着用するのだが、その下にあるのは老いて病んだ肉体、テリーマン曰く「虚栄に満ちたミイラ」に過ぎない。そのことを、子産み女としてセックスを強要される女たちこそが「裸の王様」の実態として、もっとも良く知っているわけだ。
 まあ、あれだけの人間に対し、あれだけの支配力を発揮しているのだからそれなりに有能な人なのだろうが、マックス的価値観からすると、「おまえ、荒野で一人で生きていけんの?」ってなもので、あまり眼中にないのだな。二人の間には直接の対立はない。直接ジョーと決着をつけるのは、やはりフュリオサの役目になる。


 徹底的に実写と生身の迫力にこだわったスタントも見もので、こう実際にやられると、どうしても自分がここに混じってたら、と想像してしまう。あの棒に捕まって引っ張り上げられたらどうしよう!とかね。
 数々のアクションがあるが、その中でもボルトカッターは身近に感じられて非常に良かった。チェーンを切り、貞操帯を切り、敵のワイヤーを切り……これこそがまさに自由への象徴なのだ。


 キャラもみんな良かったが、ばあさんズの、女たちを見た時のベタベタさわるリアクションが大阪のおばちゃんそのもの。身体の張りっぷりもナイスで、種持ったばあさんの「死微笑」が、まさに山田風太郎イズムでありましたね。


 精緻に構成されつつも神が舞い降りたかのようなハイ・テンションで、圧倒的な面白さ。これで二時間か……もうちょっと長くても良かったんじゃないかと思えるぐらいの多幸感体験。ラストも素晴らしいですね。とりあえず劇場でもう一回ぐらい観たい。

メイキング・オブ・マッドマックス 怒りのデス・ロ-ド

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