"良き師の愛の鞭"『セッション』(ネタバレ)


 アカデミー助演男優賞受賞!


 全米屈指の名門音楽院に入り、ドラマーを目指すニーマン。ある日、学院一の指揮者であるフレッチャー教授に演奏を見られた彼は、フレッチャーのスタジオ・バンドへの移籍を命じられる。成功が約束されたと思い、有頂天になるニーマン。だが、それはまだ全ての始まりに過ぎなかった……。


 『スパイダーマン』シリーズの新聞社社長こと、J・K・シモンズが音楽院の有名講師フレッチャー役を演じ、『ダイバージェント』シリーズで売り出し中のマイルズ・テラー君演じるドラマー志望のニーマン君をいびりまくるという映画。


 監督は実際に挫折したドラマーで、自分の体験を元にこの脚本を書いたそうな。果たして、冒頭から視点は主人公のニーマンで固定。練習室で一人ドラムを叩いていると、フレッチャーがやってくる。憧れの名指揮者を前に緊張しつつも演奏、さて感想は……? それはわからない。フレッチャーは何も顔に出さず、ただ聴くだけだ。
 後に彼のバンドにスカウトされ、「素質を認められた!」と有頂天になるニーマン君。ただ、それは彼がそう「解釈」しただけなのだよね。朝6時に来いと言われ寝坊、しかしそこには誰も来ておらず、既定の練習が始まったのは9時……。すでにもう、事は始まっているのである。


 主人公はこの冒頭の孤独な練習っぷりや地味な生活から、全然友達のいないドラムオタクであることが明らかなのだが、このフレッチャーのバンドに参加するのと時を同じくして、その高揚感に後押しされて彼女もゲット! ここが何かしらの運命の分かれ道であることが、後からわかる。人と付き合い、平凡な仕事をする人生……。だが、主人公はドラマーの道を選ぶ。本来、それはそもそも二者択一なのか、という問題もあるのだが、そこを模索する方向には決していかない。all or notihingだ。
 ドラマーを目指しつつも、映画の始まった時点では何者でもなかった主人公は、フレッチャーに引き上げられることによって、次第にそのドラマーとしてのアイデンティティに取り憑かれ、執着していく。練習のために彼女とは別れ、ジョックスの従兄弟を蔑み、ただひたすら音楽に没頭していく。
 卵が先か鶏が先か、主人公に元々そういう素地があったのか、フレッチャーはそれを見越して彼を引き込んだのか? どういう解釈も成り立つのだが、ニーマン自身、常にフレッチャーの行動や言動を見て、それを解釈している。厳しいのは期待の現れと情熱ゆえで、自分は特別視され目をかけられている……。指導が苛烈さを増し、彼はその解釈が甘かったことに気づくのだが、心の底では、女を捨ててまで選んだ道がいまさら間違いなどと認められない。だが、その行く末が自殺であったとしたら……。


 ニーマンは映画の序盤、フレッチャーの内心を読み取ろうとするが、中盤からはそれに変化が生じてくる。彼の意図を汲み取ろうとして一喜一憂するのではなく、やがてフレッチャーによって示されたルール……より練習し他よりも上手く叩けば、リズムを生み出せば認められるというルールに従うようになる。自分が一番、他の奴よりも上手いのだから、認めるべきだというエゴが彼の中で育ち、それは時にフレッチャーの恫喝をも凌駕する。


 わざと言葉を少なくし、「俺の内心を常に読め! 俺の言葉を記憶しておけ! 理解できないのはお前らが悪い!」と言うのは、典型的なパワハラのテクニックである。練習が一区切りつけば親切に言葉をかけ、飴と鞭を使い分けて心をつかむ。練習からの解放のタイミングを握って重圧をコントロールする。そうして、自分の命令全てに従うようにして、音楽に対するマシーンへと変えていくのがフレッチャーの技術だ。
 そこには暴力ももちろん含まれ、さらには管理を怠った者の楽譜をわざと隠すような陰湿なやり口も飛び出す。演奏を上手くさせるにはスパルタ以外の方法論がなく、自分が管理できない時間帯は、練習しないと振り落とされるという危機感を与えて支配する。


 それに過剰適応し、コントロール下にありながらも抑えがきかないほどに肥大化していくのがニーマンである。そこまでしろとはさすがのフレッチャーも言ってないほどに練習し、彼のリズムをつかむ。フレッチャーもまた彼のポテンシャルを引き出そうと、指導をエスカレートさせていく。


 フレッチャーによって怪物が作り上げられている、とは言い難く、かと言って彼が純粋に熱意に燃える指導者だ、とも思えない。そこまでに起きることには多くの解釈が可能だ。
 フレッチャーが内心を語るシーンは、実際には一つもない。いや、後半に自らの教育論、音楽論を語る場面で、初めて内心を吐露しているように見えるかもしれないが、それすらも主人公を誘い込む計略であったことが明かされる。もちろん、そこで語ることに一片の真実はあったのだろうが……。
 わかりやすい説明が一切施されず、真意を台詞で説明しないキャラを演じながら、それを迫真のものに仕上げる演技は本当にすごい。『スパイダーマン』の新聞社社長は戯画化された非人間的キャラだったのだが、それを踏襲し発展させたようなアプローチだな。一方ニーマン側の、弱そうなオタクから憑かれたように狂気を剥き出しにする演技も見ものですね。


 クライマックス、初めて内情を吐露したかに見えたフレッチャーにニーマンもほだされ、和解……かと思いきや……からの展開も素晴らしい。勝手にノーサイドと思ってはいけないということなのだが、それも何か人の中にある常識的な落とし所、お互い多くを失ったんだしもうそろそろ充分だろうという……を切り刻んで見せる狂人的要素が剥き出しになったようで、ひりつくような感覚に囚われる。
 非常に男臭く、幼稚で、醜悪な話なのだけれど、異常に面白く、さらにそこから立ち上る音楽は超格好良くて素晴らしいのである。パワハラ、スパルタ指導があったからこの音楽が生まれた……のではなく、狂気と狂気のぶつかり合いが数々のすれ違いを経て悪魔合体した末に、パワハラか教育かなどという単純な図式を超えた混沌の中で生み出したように思える。
 ラスト、優しく迎えてくれる父を振り切り、再び修羅となるニーマン。演奏会を自らぶち壊しにしてまで彼に復讐したかったフレッチャーもまたその音楽に魅せられる。それこそがフレッチャー自身も待ち望んだもの……! が、その素晴らしい音楽もこのラスト9分19秒に凝縮され、その時のみ生まれたもので、ニーマンがこれから大成して名ドラマーになるかというと、それはまた全然別の話なんではないか、という気がするな。人の歴史、音楽の歴史、数々の名曲もまた、シンバルを投げたからできたというわけではなく、もっと複雑な数々の要素を孕んでいるのであろう。