”エントロピーは逆流します!?”『博士と彼女のセオリー』(ネタバレ)


映画『博士と彼女のセオリー』予告編

 アカデミー主演男優賞受賞!


 ケンブリッジの大学院で研究に励む若きホーキング。ジェーンという女性と出会った彼はやがて恋に落ちるのだが、ALSを発症してしまう。余命2年を宣告されたホーキングは別れを切り出すのだが、ジェーンは彼を支えると告げる。結ばれ、子供を設けた二人。ホーキングは病と闘いながら、その頭脳で素晴らしい成果を生み出していく……。


 エディ・レドメインと言えば『レ・ミゼラブル』(http://d.hatena.ne.jp/chateaudif/20130101/1357020142)ぐらいしか観たことなかったが(『グッド・シェパード』に出てる? 記憶にござらん……)、そんな彼がかの車椅子の天才科学者ホーキング博士を完コピしてみせるとのこと。並み居る強豪を抑えてのアカデミー賞受賞となりましたが、ずっと首を曲げっぱなしの演技は確かにモノホンのようでしたね。


 さて、そんな彼が演じましたホーキング博士とはどういう人なのか? 最近ドラマ『ハンニバル』でテレビ進出し、底意地の悪さを発揮して絶好調、マルチな才能を見せつける悪のカリスマ、ハンニバル・レクター博士が、シリーズ第三作『ハンニバル』の原作でこんなことを語られてます。


「高等数学の分野でもレクターは非凡な能力を備えているが、スティーブ・ホーキングの天才はわれわれとはまったく次元を異にしている」(トマス・ハリス著:『ハンニバル』(下)新潮文庫


 すげえ! レクターもマジリスペクト! 別格と認めざるを得ない! あの何でもこなすレクター博士が、むしろ器用貧乏に思えてくるぐらいの天才、それがホーキング!


 そのホーキング博士の天才性というのは、観客であるこちらは何せバカだから数式を見せられてもチンプンカンプンで、本当の意味でその賢さを理解しているわけではない……んですけど、問題解くのはええ〜とかそういうベタな手法で伝えてくれます。
 彼がALSを発症し、余命二年との宣告を受けてからの絶望。彼と当時恋に落ちていたジェーン(演じるはフェリシティ・ジョーンズ)は、結婚し彼を支えるという重い決断を下す。
 しかし余命二年のはずが、全然死なないホーキング。博士号を取り、子供が一人生まれ、また一人、とうとう三人目……。支え続ける妻だが、生活には少しずつ歪みが生まれ、夫婦の関係もそのままではいられなくなる。二人の友人となり、介護も手伝うようになったジョナサンという男にジェーンは少しずつ惹かれていき、ホーキングが旅行に出た夜、ついに一線を越える……。このあたり、介護というのは一人で負担するにはあまりに大変すぎるけれど、しかし他人が入ることによって、夫婦間で完結していた関係もまた変化してしまうということですね。が、それをも受け入れていくホーキング……。


 さてこの映画、筋だけ追ってると、


・介護の大変さ
・夫婦の愛の素晴らしさ、あるいはそれも続かないという現実
・不屈の精神力、乙武くんのような明るく生きれば乗り越えられるという前向きさ
・天才の才能を惜しむ世界


 読み解こうとすれば、そんな感動的な「物語」をいくらでもあてはめていくことが出来る。……のだけれど、この映画はそれら一つ一つの要素をピックアップせず、三十年に渡る時間経過をむしろダイジェスト的にまとめている。省略の仕方も大胆で、フェリシティがベッドで後ろから寄り添う……次のカットでは「妊娠したの」と言っている、などなど。映像の作り込みが美しいのとテンポの良さで、物足りなくは感じさせず突っ走っていくが、モンド映画的興味を満たしてくれることもない。
 そうした構成の中で、では感動物語ではなく何が浮かび上がってくるかというと……余人には窺い知れないホーキングの人間力である。ベタな難病ストーリーを蹴散らし、恋愛も結婚も二回やってのけ、車椅子で子供と爆走し、当然専門分野では物凄い業績を上げている……。凡人なら初手から心が折れそうな難病を乗り越えてしまったあたりから、もうこの人が何を考えているか、なんてまったく想像がつかなくなる。この人を見習って頑張ろう!とか、不屈の精神を学ぼう!とか、夫婦の関係を大切にしよう!とか、言えば言うほど実態とかけ離れていく。もうおこがましくって何も言えない。
 いや、そうして偉大な一生を送っているのも周囲の支えあってこそだ、と言えるのかもしれないが、電子音声でギャグを飛ばしエロ本を読むホーキングを見ていると、それすらも彼の圧倒的なまでの人たらし力がそうさせているように見えてくる。大学時代からの友達が彼を抱え上げるシーンを見て、「オレもホーキングさんを抱えてお運びしたい!」という情動が不意に湧いてきてたじろいでしまったよ。
 後半はもはや声さえも出さず、目しか動かさない。その内面は誰にも窺い知れない。世界でもっとも偉大な脳細胞がフル回転しているという幻想だけが掻き立てられていく……。
 いやはや、これが実話の醍醐味というか、既成のお話では絶対に作れない異形性ですね。未だご存命中の本人は、もう70越えてるのにまた離婚しちゃったり、もう凡人にはまったく計れない。とてつもない偉人力が、画面のあちこちから滲み出してきて、歴史に残る人間とはこういうものなのか、と圧倒されましたね。テクニカルな面ではそんなすごい映画じゃないのだが、ただ撮ればそれで充分なのだ、と言わんばかりの……。


 さて、ハンニバル・レクター博士は、幼少時に妹のミーシャを殺されており、彼女が兵士に食べられて糞便の中に歯だけが残っている、という光景を目撃しています(後にレクターは彼ら兵士を切り刻み復讐しました)。ホーキングが大学時代に立てた理論によれば膨張している宇宙はいずれ収縮し、そうすれば時間も逆転するとされており、レクター博士はそれに希望を見出していました。いつかミーシャもあの歯から生き返るのではないか……。ホーキングが後にその学説を取り下げた時、レクターは非常にがっかりし、自分で数式を書いてみたものの願望に引っ張られて間違った式しか出てこない。


 しかし映画のラスト……時間が逆転していく! いや、これがホーキング以外の映画なら、感動狙いのよくある演出なんだけど、これは今作にも登場し否定された学説に引っ掛けてあるシーンなのである。宇宙が再び収縮を始め、エントロピーは減少し、時は逆しまへ帰っていく。それと共にホーキングは元の身体へ戻り、あの倒れ伏した石畳から立ち上がり、ジェーンと初めて踊った日へ……そして……そして……


 ミーシャも生き返った!


 いや〜、これはレクター博士も感動したと思うよ。『高海抜の恋』(http://d.hatena.ne.jp/chateaudif/20120321/1332344243)でも語られたことだが、現実には決して起きないことが起き、人の癒しとなる、それが映画なんですねえ。


 そんなわけで、レクターも脱帽のホーキング博士の偉大さ、マジすげえ。エンドロールで宇宙のバックに彼のシルエットが重なる「宇宙=オレ」と言わんばかりの絵の破壊力にも参ったね。美しき珍作、ごんぶとホーキング映画でありました。

ハンニバル〈上〉 (新潮文庫)

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ハンニバル〈下〉 (新潮文庫)

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ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫NF)

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