"貴方は超能力を信じますか?"『レッド・ライト』


 キリアン・マーフィVSデ・ニーロ!


 科学者のマシスン博士とバックリー博士は、大学で超能力などオカルト的事象に潜む嘘を暴く研究をしている。だが、華々しい超能力研究のロマンに押され、予算は減るばかり。ちょうどその頃、30年前にショーの最中に観客が突然死したことで引退していた「伝説の超能力者」サイモン・シルバーが復活を宣言する。かつて、彼を偽物とする確たる証拠を見つけられずやり込められてしまったマシスン博士は、関わる事を拒否するのだが……。


 この手の「衝撃のラスト」と謳ってる映画は、あまり期待せずに生温い目で眺めて、途中ハラハラすればそれで良し、最後のガッカリ感も含めて楽しもう、というのが、まああまりダメージを喰らわずに済む鑑賞態度ではなかろうか。
 しかしこの映画、序盤から中盤にかけての緊張感の保たせ方がうまかった。オープニングのポルターガイスト展開のトリックの見せ方が面白く、映像を一見しただけではまるで作中で本当に起きていることのように見えるのだが、調査にきたキリアンとシガニー・ウィーバー両博士は、あっさりと看破している。で、主犯である人物にその事を告げた後、依頼者には詳細を教えず「解決したから」とだけ言って帰ってしまう。「啓蒙」には興味がないのだね。さらに「事後従犯」的な人物を告発することもない。単に「追い払え」と忠告するのみだ。こういうオカルトな事件が三つの要素、「仕掛け」「煽り」「信仰」で成り立っていることがわかる。さらに、三者それぞれに意思疎通がなく、まったく独立して動いているところもポイント。
 この三つの構成要素を、中盤から終盤にかけて起きる事象にそれぞれ当てはめてみると面白い。仕掛けたのは誰で、煽っているのは誰で、信じているのは誰なのか。「仕掛け」と「煽り」を担当しているのがその時々でクルクルと変わり、それによって「信仰」のボルテージが上下するのが見える。これによって、中盤で登場人物が揺さぶられる感覚が生まれる。


 その結果、あのオチが明らかになるところで、実は誰がどこを担当しているのかがわかり、衝撃が走る……という展開になるわけだ。ただまあ、そもそもがなんでもありな設定な上に「why」の部分に意思が介在していないので、かっちりした真相とは言い難いところでもある。あれとあれとあれはあの人の仕業だったけど、シガニー・ウィーバーの死の展開だけは偶然でした〜とか、御都合主義な展開もしっかりあるし。


 しかし、今作で本当に描きたかったのはやはり「信仰」の部分なのだろう。冒頭の事件での「信仰」している人に対する外しっぷりがまず象徴的だ。それを最後の実験において、映像をガン見していた学生たちがついに真相を解き明かすシーンが、映画の結末におけるキリアンの行動に結局寄与しないことで補強する。信じるか、信じないかは、その舞台を観に来ていた観客と、映画を観ていた我々次第……。


 キリアン・マーフィが手のひらでコインを回すシーンでは、これはキリアンのレイストリン役で『ドラゴンランス』やったらいけるんじゃね!とちょっと興奮してしまいました。観ている間はかなり引き込まれるようになっていて、面白い。普通に考えたら、空飛んだ時点でバレバレだろ〜と思うんだが、映画を観ていて「デ・ニーロすげえ」と思っていても、一方でトイレに来たお客が「手品つまんねえな」とか言ってるあたりで水を差したりするあたりのバランス感覚もいいですね。これも「信仰」の問題。