"現在進行中の神話"『ソーシャル・ネットワーク』
来年1月公開……ですが、試写で見てきましたですたい!
フェイスブック創始者、マーク・ザッカーバーグは二つの訴訟を抱えていた。一つは、大学時代にフェイスブックにまつわりアイディアの盗用があったという訴え、もう一つは会社を共に経営して来た役員からの解雇は不当とする訴訟。時は、ザッカーバーグが19歳、ハーバード大学の学生だった数年前に遡る。今や全世界に広がったソーシャル・ネットワークの誕生、そして現在にまつわる物語とは?
オタクからジョックスまで、ハーバード大生のマシンガントークが凄い。実際にハーバードを卒業したナタリー・ポートマンが監修した(中退したマット・デイモンではなく……)そうだが、オープニングからして大変な早さの喋り。こっちは字幕読んでるからいいが、非ネイティブが英語を聞き取ろうとしたら、普通の映画より遥かに大変なのではないか?
あちこちに話題が飛びまくる高速トークをバッサリ切られ、彼女に捨てられてバーを走り出た主人公は、走って大学の寮へと駆け戻る。広大なキャンパスを、カメラは高いアングルから捉え、「フェイスブック」の生まれた始まりの地、ハーバード大学の姿を順々に映し出す。
http://www.cinematoday.jp/page/N0027780
上記記事にある通り、ザッカーバーグ本人は、映画の中の人物造形を否定、「女にふられた」ことが動機などではない、「作りたいから作った」のだ、と言ったそう。確かにその設定は、オープニングとエンディングに効果を上げるためでしかないように思える。観客を惹き付け感情移入させる最初の「フック」と、物語がつながって現在に至ったその瞬間に一応の「オチ」をつけるための、わかりやすい象徴でしかない。
若者らしい感情をたたえつつも、異形性を帯びた天才として造形された主人公=ザッカーバーグは、その端緒の部分を除けば、彼自身の言葉通り、「作りたいから作った」と解釈してもおかしくないように撮られている。オープニングで、確かに彼は憑かれたように、クラブやボート部へのコンプレックスを口にし、彼女に捨てられたショックに青ざめる。それは物語の始まりではあったのだろう。
だが、やけ酒をかっくらいながらプログラムを打ち込む彼には、腹いせや復讐といった目的とは、何か別の行動原理が働いているように見える。
上級生にSNSのアイディアを持ちかけられた彼は、それを元に「ザ・フェイスブック」を立ち上げる。これを使えば交遊の幅が広がり、女の子の情報も手に入り、ゆくゆくはビジネスになるかもしれない……そんな計算もあっただろう。だが、そんな「実利」を考えているのはむしろ相棒のエドゥアルドの方で、ザッカーバーグ自身は、もっと違う欲求のために動いているように見える。彼は、時に36時間コードを打ち続け、果断とも言える行動力を見せる。それは腹いせや、性欲、金銭欲のためなのか?
大学内で有名になった二人は、グルーピーに迫られ、相次いでトイレの中に連れ込まれ奉仕を受ける。カメラは片方の個室のエドゥアルドの方のみを捉え、隣のザッカーバーグは衝立ての下、ズボンのずり落ちた足しか映さない。終わった後、事の意味を充分に理解しているエドゥアルドに対し、ザッカーバーグは楽しげではあるがどこか上の空に見える。そのグルーピーと後にも付き合い続けるエドゥアルドだが、ザッカーバーグの方の女は、すぐに登場しなくなる。これは、彼の求めたものではないのだ。
ビジネスへの発展を考え、スポンサーを探そうとするエドゥアルドに対し、ザッカーバーグはこれを拒絶する。「広告はクールじゃない」と彼は言う。ビジネスにするには時期尚早、というのは、後に別の人物によって語られることだが、ザッカーバーグが言うのは、おそらくそういう意味ではない。それは文字通りの意味であり、彼自身の「創作物」「作品」の純粋さを奪われたくないからなのではないか。
だが、この映画からはその欲求……コンピュータ技術者の「創作意欲」を描く事が、ほぼすっぽりと抜け落ちている。ザッカーバーグの内面は、彼自身の台詞としてしか語られず、彼が一心不乱に叩くキーボードの上、画面の中で何が起こっているのかは皆目わからないままだ。
しかし、彼はコンピュータ上に我々には見えないものが見え、プログラムを書くことで、人々の求めるものを現実に生み出す事ができる。人々に支持されるに値するものを生み出し、与えることが出来る。
プログラムの技術的側面(それをなし得た人間の超人性)に踏み込まないことで、映画はザッカーバーグの天才性をわざと浮き彫りにしない。エドゥアルドとの対比による人間性の違いでのみ、ザッカーバーグを描こうとする。それは真実に迫ることを最初から放棄しているということで、ある意味正しくない。が、天才ならぬ我々は、所詮凡人の目からしか彼を見る事ができない。ゆえにその描き方は、賢明とは言えるかもしれない。
だが、我々がその天才性を認識できずとも、世界は彼とその創造物によって動く。世界を動かす力の創造主、まさに彼は「神」なのだ。人間としては不完全だが、世界を動かす天才的才能を持っている現代の「神」、それこそがザッカーバーグだ。
もう一人の「神」ショーン・パーカー(「ナップ・スター」の創設者)と出会った事で、彼は「神」=自分の才能の正しいあり方を知る。「神」の求めるもの……それは、尊敬と崇拝だ。それ無しではどんな神も存在できない。それがあるからこそ、神にも初めて価値が生まれるのだから。
その尊敬を背景に、「神」自身はいつまでも欲求に従って創造を続けていたい。作中、人生と会社の存続のかかった訴訟の舞台においてもなお、ザッカーバーグはキーボードを叩き続ける。友情、ビジネス、社会……それらは彼の求めるものとはあまりにかけ離れている。「神」は妥協にまみれ、失意の中で孤独を感じる。
映画は、そんな人と相容れないザッカーバーグを正確に映し出し、それでいて内面には踏み込まず突き放す。その才能の偉大さはもたらされた結果でしか描かれない。反面、ビジネスパートナーとして、友人として、学生として、社会人として、男として不完全な姿は執拗に描かれ続ける。
映画監督として、「才能や発想が認められない姿に共感した」と語るフィンチャーだが、映画の中の視点は「世界に認められた才人」同士の共感からは、絶望的なまでにかけ離れている。そんなナルシシズムは、彼にしてみればお呼びでないのだろう。『ゾディアック』の時と同様、フィンチャーはその時代そのもの、稀代の殺人鬼ではなくマーク・ザッカーバーグによって動かされた時代を、フィルムに切り取りたいのだから。才能による成功譚ではなく、金と利権に群がる男たちのある意味普遍的な姿を描く事によって、それは成功しているように思える。ともすればベタに見えるのは、人の営為は変わらないというリアリズムだろう。
いや、これはザッカーバーグ本人が見たら、さぞ気分を悪くしたことだろうなあ。上記記事の彼女の話同様、おそらく多くのことが誇張されているはずだ。
だが、逆に美化して彼の天才性を主眼にし、彼女との愛情物語を描いたら……そりゃ『ビューティフル・マインド』だ。ザッカーバーグにしてみれば、それは望むところかもしれないが、しかしあれも多くが事実に反するお涙頂戴映画だった。ベクトルはある意味同じだ。
ランタイムは2時間。デヴィッド・フィンチャーの近作と比べると、意外なまでに短い。もし、もう十年後に作られてたら、3時間の映画になっていたかもしれない。オープニングとエンディングを完全な「フィクション」にしなければならなかったのは、まだ「物語」としては未完成であるからとも取れる。
そう、フェイスブックは今なお成長中、シリコンバレーとソーシャルネットワークを巡る「神話」は、まだ現在進行中だ。出来上がったこの映画に文句があるなら、ザッカーバーグにはぜひとも、フィンチャーが「ああ……映画化もうちょっと待てば良かったかな……」と思うような輝かしい一幕を付け加えてもらいたいものだ。それが映画で描かれるに相応しい「神」としてにせよ、ついに映画で描かれなかった本当の「人間」としてにせよ。
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