“ガス室の穴"『否定と肯定』


映画『否定と肯定』予告

 ホロコースト映画!

 著書「ホロコーストの真実」で、イギリスの歴史家アーヴィングのホロコーストはなかったという主張を批判したデボラ・リップシュタットは、名誉毀損でアーヴィングから訴えられる。被告側に立証責任のあるイギリスでの裁判に、英国の腕利き弁護士たちが揃い、歴史的な戦いが始まった……。

 歴史学者リップシュタットが訴えられた実際の裁判を映画化。「ホロコーストは実際にあったのか?」論法というのは結構根が深くて、例えば全然関係ないように思える日本のTwitterでも、ちょいちょい「ガス室はなかった」と、今作のアーヴィングそっくりのことを言ってる人がいるのである。いったいどういう心情でドイツの話をしてるのかと思うが、返す刀で「南京大虐殺はなかった」「慰安婦はいなかった」とやりだすので、ホロコーストプロパガンダの産物である、という思考を、日本の戦争犯罪の問題にも適用しているのだな、とわかる。
 そういう意味では今作における歴史修正主義というのはまったく他人事ではなくて、本邦にも援用できる話でもある。そもそもアーヴィングはイギリス人で、ドイツと戦った国の人間なのにこういうことになるのだから……。

 リップシュタットはアメリカ人だが、裁判はアーヴィングの出身地であるイギリスで起こされる。講演会にアーヴィングがカチコミをかけてきた1994年から、実際に訴訟が起こされるまでは約二年。裁判が始まり、やがて佳境に入るまでさらに数年。控訴が却下されて判決が確定したのは2001年だから、相当に長いスパンの話。
 裁判自体も華麗なる逆転とは程遠い、地味かつ砂を噛むような論証が続くハードなものに。被告であるリップシュタット側に論証責任があるのだが、この論証の過程そのものに歴史を紐解く作業との共通性があるんじゃないかと思うね。
 リップシュタットを演じるのはレイチェル・ワイズだが、アメリカ人ということで言論には言論で対抗し、議論に徹底的に応じるのも辞さないぜ、というスタイル。要は短気で喧嘩っ早いのだが、イギリスの裁判のスタイルがアメリカと違うのと同様、イギリス人の喧嘩作法もアメリカ人とはまたちょっと違うのだ……。
 歴史修正主義者は法的に「与し易し」としてイギリスで裁判を起こすのだが、それは確かに一面的にはその通りなんだけど、「ちょっと待て、だからって通しゃしねえよ」と言うイギリス野郎どもの意地がうかがえる。

 ホロコーストはあった・なかったの二元論、つまり邦題『否定と肯定』状態に持ち込むことが修正主義者の狙いだが、リップシュタット弁護団の狙いは、あくまでアーヴィングの主張を突き崩し、彼の発言の不正確さや欺瞞を立証することである。複数の陪審員に裁かれるとなると、どんな価値観が持ち込まれるかわからないので、裁判長一人による審理に持ち込み、徹底的に証拠を突きつけていく。実話ではアーヴィングが裁判長に対し、うっかり「総統」と呼んじゃうひどすぎる展開があったそうだが、さすがにわかりやすくダメ過ぎたのか映画ではカット。致命的だろ……。

 リップシュタットさんが、なかなか弁護方針に賛同しきれずフラストレーションを溜める展開に、イラッとしがちな関西人もつい共感してしまうのだが、次第に戦術が功を奏していく感があり、さらに事務的に見えた弁護士たちの熱いハートも垣間見得たりして、徐々に納得と信頼を深めていくあたりがいいですね。
 しかし論証は好調だったが、判決直前、裁判官が「アーヴィングが捏造してるんじゃなく、本気で信じてるとしたら、それは故意とは言えないんじゃないか」と、とんでもないことを言い出す。あれだな、あまりにフルボッコにしすぎたせいで、相手が嘘や捏造を繰り返す「悪い」人間であることを証明するはずが、あまりに馬鹿げた間違いや矛盾が大量にあるから、わざとではなく本物の「バカ」なんじゃないか、と裁判官も思ってしまったのではなかろうか。バカだから本気で信じている可能性がある、と……。

 相変わらずお美しいレイチェル・ワイズ様だが、今回はいけてないスウェットなんか着てる学者を好演してて、短気さと知性のバランスが上手かったですね。アーヴィング役のティモシー・スポールは太った役が多かったのに今回はげっそりと絞り込み、思わず卵を投げつけたくなる憎たらしさで、こちらも最高の演技でありました。

 裁判の結果は史実の通りだが、その結果にも関わらずアーヴィングが懲りずに修正主義の言説を発し続けることも示される。彼らには歴史の学問的積み重ねや、法の場での論証などもどうでもいいし、ひたすら難癖をつけ続けることで『否定と肯定』に持っていけばそれでいいのだ。だが、我々もまた主張し続けるだけだ……。
 アーヴィングはその後、賠償金を払えず破産したり、オーストリアで逮捕されて「ナチスユダヤ人を殺した」と認めたりしていて相応に痛い目にもあったのだが、彼のやってきたことが消えたわけでもないので、逆にそこまで描かないラストにしたのかな。アーヴィングがいなくなったとしても、同じような言説を発する人間はごまんといるわけで、あくまで警鐘を鳴らし続けるわけだ……。

否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)

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ホロコーストの真実〈上〉大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ (ノンフィクションブックス)

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