"機械仕掛けの老人たち"『009 RE:CYBORG』


 サイボーグ009が復活!


 2013年、世界各地で起きる高層ビルを狙った爆弾テロの数々。その実態を探る、世界各国の諜報機関。その中には、仲間と袂を分かったゼロゼロナンバーサイボーグたちもいた。ギルモア博士は、世界各地に散ったゼロゼロナンバーを呼び集め、テロの謎を解き明かそうとする。だが、その影にあったのは大国や企業の思惑などではなかった。記憶を消し、東京で学生生活を続けていた009が舞い戻った時、さらなる謎が彼らに降りかかる……。


 一応、原作はだいたい読んでいるし、平成版のアニメも観ている。
 あまりいい評判を聞かないまま観に行ったが、割合面白かった。なんと言っても川井憲次のスコアがまず最高である。一応このキャラにも見せ場を用意してみました、みたいなシーンでも、劇判流れるだけでガンガン上がるから!


 現代が舞台ということで、漫画で繰り広げられてたような戦いからもう二十数年が経ってるという設定なんですな。サイボーグたちは歳を取っていない。ただ、内面的にはみんな老成していってるんではないかな。ある面では頑迷になっているところもあるのだろう。しかしそれにしてもグレート……キャラが変わり過ぎだ……。もう片鱗さえ残っていない真面目キャラになってるではないか……。いや、真面目は真面目でいいから、ちょっとシェイクスピアの引用でも間に挟めばそれっぽくなったはずなのに……。イギリスの諜報部とか入ってたらダメっしょ。中華飯店の共同経営しとけば良かったのに……。
 そしてあえなくピュンマ共々退場の憂き目に! おお〜、なんてこった。


 まあ二時間もないわけだから、キャラを削るのは予想通りだし、そもそも原作でもこういうことは珍しくない。ヨミ篇以降の短編では、1〜数人のみしか登場しない話がごまんとあるし、「風の都」編ぐらいの位置づけと思えば気にならない。
 グレートの変わりっぷりはともかくとして、張々湖の「ちょっとかっこよい」ぐらいのアレンジは割合良かったんではないか。一応、中華料理も続けてるし……。が、ギルモア博士と訴訟起こしてる、みたいな台詞が飛び出して……なにそれ、どういうこと!?


 サイボーグたちは歳をとっていないのだが、ギルモア博士はさらにごっつい歳をとりつつもまだ生きているのですな。もう手術とかは自分では無理だろう、という感じによぼよぼしている。で、ギルモア財団という聞き慣れない名前が出てきますが、まあそういうものを作ってメンバーのメンテや情報収集を代行させているのでしょう。しかしそういったもので金や権力が集中すると、色々なしがらみが出てきますよ……ということで、メンバーの何人かは距離を置いてしまっていることが徐々に判明。さらに009のことまで疑いまくり銃まで突きつけるご老体! いやいやいやいや、これはひどい。原作の信頼関係を前提にしてると、ぎょっとなってしまうね。原作でもちょいちょい洗脳やら改造やら偽物を疑う展開はあるのだけど、博士とサイボーグたちの今現在を描くシーンが少ない上に大幅に設定が変わっていてギャップが大きいため、単に博士が老害化しているように見えてしまうのだね。


 この映画オリジナルの設定や描写はかくも色々あり、まあいちいち突っ込んでいるときりがない。なにせ二十数年経っているのだから、どんな人間でも変わるし、肉体の変わらない者の内面がそうでない人間とは違う変化をしていることもまたあり得ることだ。そのどこまでが許容範囲かは人によって分かれるところだろう。自分的には、こういうのもあり、と好意的に見つつも、違和感を禁じえないところもちょこちょこ。


 そんな中、003ことフランソワーズがエロいエロいと聞いていたが、うん、色は黒ですな、というところ以上に、自分が飛び降りてそれを助けさせることでジョーの記憶を呼び戻すという手法と、架空の女子高生を作って自分の代わりに側にいさせる、というやり方に、何かちょっと支配的と言うかコントロール願望みたいなものを感じてしまう。実際、記憶を消している状態のジョーは半ばコントロールされる立場にいるわけで、それは操る側のフランソワーズとしても本意ではないはずなんだが、本気で嫌がってるようにも見えないのだよね。むしろちょっと楽しんでない? 「また三年……」とか言って脱いで、かえって何か燃えてない?
 しかしまあ、島村ジョーと言う人は、この映画のラストでもそうなのだが、いざとなった時に絶対に彼女と彼女との安息を選択しない人でもあって、フランソワーズはそれを身に沁みて理解しているからこそ、せめて今だけでも自分のものにしておきたいという気持ちに駆られているのかもしれないね。で、そんな風に想われているのに対し、受身なくせに尻だけは揉む手つきをしているジョーに、微妙にイラッとしたのであった。


 冒頭、爆弾テロをやりかけていて観客を焦らせるジョーさんですが、この人は相変わらず強いね……。二十数年の時を経て、相変わらず迷いながらも乗り切り方が異常に上手くなっているというか、映画のランタイムのせいもあるが理解も決断も早い早い。そしてご存知加速装置! 自分が加速しているというより周囲が止まったりゆっくりになってるようにしか見えないあたりご愛嬌ですが、描写は気合入ってたね。最初のうちはこまかく周囲の状況描いてたのに、後半は消えたと思ったら敵が全滅している、という正しい描写の端折り方もナイスだ。加速して短時間に色々やる、という通常のアクションに加えて、ドバイ脱出シーンの高速移動もイーサン・ハントより遥かに速かったね!(『ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル』(http://d.hatena.ne.jp/chateaudif/20111223/1324609612))


 事件のキーを握る「彼の声」を主人公は聴いているのに観客には聴こえない、という点が、終盤に置いてけぼり感のある最大の原因ではあると思うが、作中で語られる集合無意識という存在であり、聴く側の人によってその内容を変えるという点を考えると、クライマックスの展開は原作ヨミ編の変奏曲のように僕は受け止めました。かつてブラックゴーストの首領が語った「我々は決して滅びない。なぜならブラックゴーストの正体は人の心の中の悪だからだ」という言葉と、それに対するジョーの「自分はちっぽけな善の一つだ」という言葉、その二つを総合した結果が、世界を変革しようとして善悪どちらにも傾く人の心なのではないか。破壊を目論むものも入れば、自らの命を賭けてそれを止めようとする者もいる。ジョーがそのどちらもの行動を取ったことが、その人間に潜む両面を表していて、そして良き道を選び取ることもできる、と言っているのではないか。
 宇宙空間、転送される009、大気圏を突破して助けに来る002……そして流星。それらは単に絵面だけでなく、内包したテーマも、あのヨミ編から引き継いでいるのではないか、そんな気がしますね。そしてヨミ編では突然彼を奪い去られたような格好になっていたフランソワーズが、今度は彼を送り出すことを受け入れる展開に、二十数年を経て老成したキャラクターたちの今が象徴されていたように思う。


 で、問題のラストの展開なんですが……いや、これが物議を醸すとかありえないでしょ。クライマックスの展開がヨミ編なら、その後は平成版アニメの「完結編〜Conclusion God's War〜序章〜」のことに決まってるではないですか! あれも流れ星の次の回から脈絡なく急に始まったけど、作り手はつまり「これから完結編をやりたいな〜」と言ってるわけですよ! まったくわざわざ001が「最後にもう一回テレポート使えちゃったテヘペロ」と言ってくれないとわからないのか!? そんなこまけえことはいいんだよ!


 うーむ、色々とあれっとなるところも多いが、こうやって書いてると、なんとなくいい映画だったような気がして来たから怖い。またソフトが出たらもう一回観てみよう。

ANOTHER SOUND OF 009 RE:CYBORG

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サイボーグ009 (1) (秋田文庫)

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