"滅びるべくして滅ぶもの"『猿の惑星 創世記(ジェネシス)』


 かの超有名作の前日談!?


 アルツハイマーの治療薬となる新薬の開発中、実験台となったチンパンジーに驚くべき変化が起こる。副作用によって脳が活性化し、知能が急激に発達したのだ。だが、実験は中止され、開発者のウィルはそのチンパンジーから生まれた子供を家に引き取ることとなる。「シーザー」と名付けられた子供のチンパンジーは人間を凌ぐ認識能力を示すように。そして数年の月日が流れた……。


 現代のアメリカからスタート、ということで、非常に身近な話に仕上がっており、主人公の科学者がご家庭に賢い猿を引き取るところから幕を開ける。家にはアルツハイマーを患った父親がおり、人間以上の認識能力を示す猿「シーザー」を交え、奇妙な擬似家族が生まれることとなる。
 「人間の子供のように」外界に興味を示すシーザー。成長してからは自分の境遇に疑問を抱くようになる。「僕はペット?」 ジェームズ・フランコ演ずる科学者は当然否定する。「おまえは家族だ」。だが、シーザーの置かれる境遇はペットそのものだ。隣家の男に対して、ジョン・リスゴー演ずるお祖父さんをかばって暴力を振るってからは、猿の保護施設に放り込まれることに。


 人間による類人猿の扱いは、当然動物に対するそれなのだが、知性を持ったシーザーの痛みは、強く伝わって来る。さて、その原因となったのがジェームズ・フランコなわけですが、彼にぴったりなこのキャラクターの、何も捨てられない甘さと弱々しさ、ほんとおなじみだね〜。科学者としての規範に反して薬品を持ち出し、臨床実験抜きで父親に使ってしまう。先に見た『コンテイジョン』(http://d.hatena.ne.jp/chateaudif/20111013/1318237925)にも似たような展開があったが、全く意味合いが違う。あと、管理体制ずさん過ぎだろって突っ込みどころも(笑)。シーザーのことも家族と呼ぶけど、人間社会のしがらみに囚われて彼の本当の気持ちを最後になるまで理解できない。こういう厳格になれない保身的な弱さは当然自分にもあるわけで、なかなかに考えさせられる。
 彼と結婚するフリーダ・ピントさんは、時にそれを厳しく諭し、時に身体を張って道を開くいい妻役。こんなやつほっといて、オレと結婚してくれ!
 そしてジョン・リスゴーも素晴らしい。いやねえ、この人『リコシェ』とかの悪役で「顔怖いよ!」と思ってたけど、すっかりいいおじいちゃんになっていた……。シーザーも大事にしてるし、こちらも時に息子を諭し……って、ジェームズ・フランコ諭されていつものショボーンな顔になってばっかじゃんかよ!


 最初は人間の立場から見ていたものが、徐々に類人猿側に傾いていき、視点の変化と逆転が起こる。類人猿の生態を結構リアルにやってるので、人種差別のメタファーとしてはやや弱くなったが、今度は「知性ある猿」を一つの人種として見立てた場合の表現がより豊穣になった。支配された奴隷たちの蜂起と革命、その中でも三本の矢の強さと、許せない時は「NO!」と言う勇気の大切さがわかりました! 革命に至る、人間(猿だけど)の根源的な意志の表明としての「NO」という言葉の重み。何の変哲もない一言が名台詞になる瞬間のカタルシス!


 シーザーの幽閉される私設の飼育係が、所長の息子である奴ともう一人。この息子の方が『ハリポタ』のドラコことトム・フェルトンで、猿を消火ホースやスタンガンで虐待する最悪な野郎。全然救えないキャラで、ここまで悪くそしてしょぼいと、むしろこの役を受けたフェルトンが潔く感じられる。まあでも、青春スターを卒業したキーファー・サザーランドも一時はこんなチンピラやら人種差別主義者ばっかりやってたので、いつか浮かび上がれる日が来るかもよ! この手のお話の帰路として当然彼はあとで報いを受けることになるのだが、もう一人の飼育係は気弱そうな人なんだけど猿には親切だったんだよね。結果、無益な殺しはしない、という猿たちの規範の最初の対象となる。革命によって立場が逆転した時、当然かつての行状が問われるわけで、うむむむむ、僕も日頃の行いに気をつけよう、と思いました。
 自分の境遇に対して疑問や不満を抱くところから全ては始まるんだよね。「猿は猿らしくしてろよ」というのはマジョリティ側の都合でしかなく、誰もが自由を求める。さらにそれが自分を含めた類人猿の共通の問題であることに気づき、同族を動かして革命に臨む。実に正統派な流れですな。
 人間様だ、多数派だ、アメリカ人だ、日本人だと増長してると、立場が弱くなった時にどういうしっぺ返しを受けるか、ということで、せめて猿から「あいつはいい人間」と言われるようになりたいものである。


 ストーリー中心で、意外にアクションシーンは少なめ。なんだが、序盤に室内でシーザーが飛び回るシーンなんかは臨場感充分で、これは結構上手い演出をしてくるんじゃないかと思ってたが、後半も人間にない機動力を持つ類人猿の三次元的アクションをまとめてくる。平面でしか対応できない人類は、その盲点を突かれて、物量差も技術も虚しく軽々と凌駕されてしまう。
 予告でもあった、並木道で大量の葉が落ちてくるシーンは素晴らしかったなあ。そりゃああんだけの葉っぱが降ってくるといったら、「樹上を猿の大群が通過する」ぐらいのシチュエーションしかあり得ないわけで、そんな状況が自然に登場するのはこの映画のみ。 今までにないものを観た感あり。
 人間に向かって物が投げられる(槍、マンホールのフタetc……)シーンが、全部人間側からの主観視点で、 我々人間の立場から猿の怒りが味わえるようになっているのも印象的だった。


 かなり旧作につながるネタもあったが、それなしでも充分楽しめる。結末は猿たちの思惑の埒外の展開を迎え、人類にとっては最悪のものとなる。だが、これを一科学者のせい、としてしまうのは短絡的で、利益のために科学を発展させ地球上で勢力図を広げ続け、他の生物を実験に利用し、病さえも克服しようとし脳や遺伝子の領域まで踏み込み続けて来た人類にとって、いつか降りかかってもおかしくないリスクだったと言えよう。それを推し進めた企業や科学者、政府のみならず、我々とてその科学の発展を支持し、他の生物を利用して生き続けているのだから。もうありきたりなレベルではある文明批判だけど、これ抜きでは『猿の惑星』の名は冠せないよね。 予告編以上の見せ場を秘めた快作。ゴリラもオランウータンもカッコいいぜ!