見せずに魅せる切株クライマックス……エリたん最高! 『ぼくのエリ 200歳の少女』


 スウェーデンで製作され、ヨーロッパで絶賛された傑作ホラー。


 母子家庭で暮らす12歳のオスカーは、学校でもいじめに遭い、居場所のない日々を過ごしていた。ナイフを持ち歩き、夜には家の前の木を切りつけ、うさを晴らすのが日課。そんなある日、アパートの隣の部屋に、壮年の男に連れられた一人の少女が越してくる。少女の名はエリ。夜しか出歩かない謎めいた彼女に、いつしか惹かれていくオスカー。彼女と心を通わし、力を得たオスカーは、やがていじめをも跳ね返すようになる。だが、一見12歳の少女に見えるエリには、大きな秘密があった……。


<以下、作品の中盤までのネタバレとなります。ご了承の上、ご覧下さい>


 原作はヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの『モールス』。今作の脚本は、作者自らによって、大幅に刈り込まれ、脚色されている。上下巻で、結構分厚いのな。しかし、多くの描写をカットすることによって、主人公オスカーの視点に物語を集約させることに成功している……らしい! 読んでないんで!


 人生に閉塞感を抱いている少年が、少女と出会い恋に落ちることで、新たな世界を見出す……よくある話ですな。ボーイ・ミーツ・ガールは、いつだって少年に扉を開けてくれる。だが、その扉の向こうにあったのは、200年に渡る暗黒の日々だったのだ……。


 オスカー少年は12歳という設定。彼は人生を、時折描かれる窓ガラスのように、透明な檻によって閉ざされているように感じている。
 学校では、小憎らしい3人組によって豚呼ばわりされ、いじめられる毎日。それはじょじょに暴力の気配をまとい、エスカレートする兆しを見せている。オスカーは、鬱屈した思いを、彼らと同じような言葉を吐き、木をナイフで刺すことによって晴らしている。
 このオスカー少年、そこそこ身長はあるんだが、登場シーンの裸の生っ白さと、筋肉なんて見えない成長途上の肉体には、まったく強さが感じられない。同じく主人公がいじめを受ける『ベスト・キッド』では、ジェイデンの身体の小ささが弱さと未熟さを表現していたが、今作のオスカーは生っ白い肌に加え、ブリーフ、短パンだ! 夜の下着姿、体育の時間の短パンスタイルが、また弱さばかりを強調する。


 家は母子家庭。オスカーは、この年頃の少年の例に漏れず、いじめにあっていることは母親には隠している。顔に傷があれば、鋭い母親は疑うだろうが、この母は「転んだ」という言い訳をあっさり信じてしまう。
 全編、台詞も少なめで映像のみで表現していて、母親の性格もそれで類推するしかない。子供と一緒にふざける陽気なシーンと、ヒステリックに叫ぶシーンが混在する。その落差が激しい。オスカーが学校で問題行動を起こした時も、別れた夫に電話し、「あなた父親でしょう?」と叫ぶ。オスカーへの愛情はあるのだろうが、起きて欲しくない事象が起きた時にそれを受け入れられない弱さが感じられる。いじめも、オスカーによる暴力も、そしておそらくは離婚も「あってはならないこと」なのだ。
 対する父親は、離れて暮らしている。原作によると離婚の原因は酒らしいのだが、映画ではそういう描写はない。オスカーは、休みには時々、会いに行って、父の住む小屋に止まっている。この父親、えらくイケメンで若々しい。かつての妻よりも、幾分若く見える。遊びにきた息子への面倒見も良く、凍った湖で、バイクに乗って遊ぶ。いい父親に思えるが、次の描写で暗転する。ある夜、泊まりにきたオスカーとゲームしているのだが、近所に住む男友達が来た途端、彼と酒を飲むことを優先してしまう。オスカーは「お客さんが来たんだから」とほったらかしにされ、結局ヒッチハイクで家に帰ってしまう。このシーンも台詞がほとんどなくて類推するしかない。アル中と言うほどの描写はないので、原作と同じ酒問題を匂わせているようには見えない。実はこの男友達とゲイ関係なのでは、という推測も見たが、やや飛躍があるように思う。ライムスター宇多丸氏がポッドキャストで「なにかこの男友達に逆らえない、支配されているように感じられた」と言っていて、それも一つの解釈かもしれない。
 先の妻からの電話の際、学校で暴力を振るったオスカーに対し、父親はそれを問いただすでもなく、説教するでもない。そもそも触れない。「元気か?」と聞いて、バイクの話などしただけで電話を切られてしまう。
 ……これは僕の解釈だが、彼は父親失格、夫失格の男なんではないかと思う。家庭を持っても、そこに責任感を抱けない。今、一人で暮らしてて若々しく見えるが、それはその暮らしが居心地がいいからだ。たまに来る息子とも友達感覚でしか接せない。そして、本当の男友達が来たら、そちらを優先させてしまう。いつまでも男同士でヤングメンやっていたくて、妻やら家族やらには本当は関わりたくないのだ。だから、息子が学校でトラブルに遭っても間の抜けたことしか言えず、知らんふりなのだ。
 そりゃあ、この夫婦はうまくいかんよな……離婚も無理のない流れに見える。


 映画は、一面の雪景色が延々と続く。晴れた日はあっても、積もった雪が消えることはない。美しいが、冷たく閉ざされた世界だ。
 近所に住む、中年から壮年の男たちが登場する。彼ら同士で友情を育み、地元の女と付き合っている男もいる。昼間から飲んでたりして、何をしているかよくわからない人たちだ。映画では「被害者」役で、正直、気の毒な存在でもある。何も悪いことはしていないのに。
 しかし、彼らの存在は、この街の未来を象徴して見える。ここにいる限り、いつか彼らのようになる。
 オスカーをいじめる男の子たちも三人組だ。エスカレートするリーダー格の少年に対し、他の二人は過剰な暴力には及び腰。仲は良くて、いつもつるんでいる。成長すれば、彼らもこの街の大人たちのようになるのだ。
 そして、このいじめっ子たちと相容れないオスカーには、二つの道しか残されていない。彼らの食い物にされて生きるか、同化するかだ。


 オスカーにとって閉ざされた世界に、エリはやってくる。知的で、謎めいたエリに惹かれるオスカー。最初は拒絶するエリだが、すぐにオスカーを受け入れる。
 ホーカンという男と、エリは暮らしている。ホーカンは、街にやってきてすぐに少年を襲い、森の中で彼を殺して血を抜き取ろうとする。麻酔ガスまで用意して、準備は万端だった。だが、犬とその飼い主に見つかりそうになり、結局血を得られず逃げ出す。そんなホーカンを、エリは非難する。
 オスカーに「君、臭うよ」と言われていたエリ。エリは、血なくしては生きられない。自ら街の男を襲い、その血を吸う。臭いは消え、肌は瑞々しさを取り戻す。
 ホーカンは、おそらくかなり以前から、エリのために血を集めることを繰り返してきたのだろう。だが、彼も老い始めていて、見知らぬ土地で殺人を手際よくやり切ることが不可能になりつつある。「今夜はあの少年に会わないでくれ。今度失敗したら、きみのためにこれを使う」……酸を持って新たな血液採取に出たホーカンだが、やはり不手際で追いつめられ、こぼして量の少なくなってしまった酸を、自らの顔に浴びせる。「エリ……」とつぶやきながら。
 病院を訪れたエリは、顔の爛れたホーカンの最後の奉仕……彼自身の血を吸い、命を奪う。
 原作では怪物的なペドフィリアとして描かれているらしいホーカンだが、映画ではエリに仕え、奇妙な愛情関係を結んでいる存在としてのみ描かれている。
 いや……彼とエリの関係だけを抜き出しても一本映画が撮れるような……恐ろしい結末。だが、彼は不幸であったのか? 愛している者のために生き、限界を悟ってもそこに挑み、敗北しても自らの想いに忠実に振る舞い、想像を絶する苦痛にエリのために耐えながら、全てを捧げて人生を終えた。それは、ある意味、とても幸福なことだったのではないか?


 孤独になったエリは、逡巡を抱えながらもオスカーとの距離を縮めて行く。その傍ら、自ら人を襲うことを余儀なくされる。
 オスカーもまたエリの、人を狩って生きる「強さ」に影響され、自らも強くなろうとする。
 学校で、体育教師にトレーニングを申し出るオスカー。この体育の先生が、この作品では唯一健全でまともな大人に見えるから不思議だ。しかし健全すぎて、鍛えるのがアクアビクスなのが笑える。ウエイトもやってるが、オスカーは強くなれるのか?


 課外授業で凍った湖に出たオスカーたち。いじめっ子三人組は、オスカーを水に突き落とすぞとおどかす。オスカーは棒を拾い、そんなことをするならこれで殴る、と言い放つ。初めての反抗。リーダー格のクソガキは、他の二人が引き気味なのにも構わず逆上する。
 ここで実際、オスカーが棒で彼の横っ面を殴る。このシーンのビジュアルが、ほんとにヘロヘロッ、ピシッ……てなしょぼくれた擬音しかつけられないような、弱々しい叩き方だったのだよね。見てるこっちも腹に据えかねてるので、吹っ飛ばしてきりきり舞いすさせるような強烈な反撃を期待していたのに、いじめっ子も立ったままで……こりゃだめだ! しかし、そう思った直後、いじめっ子はうずくまって泣き出す! 号泣! 耳が血だらけ! いえ〜い! しかし……いじめっ子よわっ! こんな奴に今までびびっていたのか!?


 これが前述の問題行動。母親にはヒステリー気味に怒られたものの、オスカーは気にせず、夜にこのことをエリに報告する。


エリ
「一発かよ……。だせー野郎だな」


オスカー
「いや……オレの棒術がすごかったんだよ」


 そんなやり取りはないけどね! まあそんな感じ!


 ……ここまでで中盤です! 


 本当に内容の濃い映画。極力台詞を廃し、徹底的に描写のみを積み重ねているため、理解しにくい、解釈に迷う部分もある。が、不親切ではまったくなく、すべてのシーンが意味を持ち、中盤までを踏まえて加速して行く後半へとつながっていく。


 ここからは内容には触れませんが、後半になればなるほど、吸血鬼ムービー、ジャンル映画としての見せ所もビシッと見せて行くように。ハリウッド映画に比べれば抑えめですが、それすらも前半の描写が効いていい方に作用している。
 これまでを踏まえて、いじめっ子を乗り越え、エリの正体を知ったオスカーは如何に生き、如何なる選択を下すのか? そして、エリもまた如何なる道を選ぶのか……? 続きはぜひ、映画を見よう! 特に八尾の猫氏(id:hachibinoneko)は必見だな。名古屋公開は11月で、先過ぎて泣けるが……。


 さて、抑制されてはいるが、素晴らしいビジュアルも目白押しな本作。でもやっぱりオレが好きなのはクライマックスです!


 ズバリ、切株!


 ここもビジュアルは抑えている……というか、部分的にしか見せていない。でも一部しか見せていないがゆえにこちらのインスピレーションをよりいっそうかき立てるのだ。ありとあらゆる映像を作り出せる、このCG全盛の昨今……かくも「見せないことで魅せる」演出を見たのは、本当に久しぶりのような気がする。


 ああっ、見えない水面の上で奴らは、どんなに鮮やかに、どれほど残酷に、どれだけ恐怖に怯えながら切り刻まれたのだろう?


 想像するだけで絶頂に達しそうになる。肝心なところを何も見せていないにも関わらず、同じ吸血鬼もののシーンとしては、ほぼオープニングなのに最大のクライマックスだった『ヴァンパイア 最期の聖戦』のトーマス・イアン・グリフィスの酒場殴り込み大暴れを凌ぐカタルシスが得られたよ!


 サイコー! エリたん、ちょーサイコー!


 余談。
 『カラフル』http://d.hatena.ne.jp/chateaudif/20100831/1283247286 の項でも書いたのだが、かの作品は性善説的というか、周囲の善きものを見出せるか、悪しきものをも善きものと一体のものとして受け入れられるか? という事を提示している。今の環境を受け入れることこそが正しい事で、そのための修行、なんだが、それは心を入れ替えた家族、人間味のあるクラスメート、いいところもある下級生の女子があってこそで……。それは必ずどこにでもある、とは言い切れないだろう。そこまでの意図はないのであろうが、自殺するほど追いつめられた者に対し、自己責任論を説くような説教臭さが、少々感じられた。
 どちらが正しい、ということではない。ただ世の中には『カラフル』の救いを、受け入れられない、絵空事としか思えない、実感として捉えられない人もいるように思う。もし、そう言う人がいたならば、ぜひこの『ぼくのエリ』を見て欲しいと思う。


 最後に待ち受ける、大石圭ばりの「絶望的なハッピーエンド」が素晴らしい。
 さあ、共に暗闇へと歩いて行こう。たとえ先に闇しかなくとも、信じた道を歩む事こそが、人の幸福なのだから。

MORSE〈上〉―モールス (ハヤカワ文庫NV)

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MORSE〈下〉―モールス (ハヤカワ文庫NV)

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